発掘調査(平安京左京五条三坊)、三川合流、平安末期の巨椋池、奈良時代の京都

発掘調査
平安京左京五条三坊(平安時代の町名)四条大路と五条大路の間 西洞院と東洞院の間

11月に、試掘が5か所(中央と四隅)行われたました(もともと駐車場でした)
12月から発掘開始です
期限が3月末だったので、31日には埋め戻されました
 このあと、ホテルが建設されます
     
     
     
  

三川合流
伏見4城

豊臣から徳川にかけての伏見城


奈良時代の京都


戦国時代の京都

当時の道路は四条大路,綾小路,五条坊門小路,高辻小路,五条大路,樋口小路,六条坊門小路,楊梅小路,六条大路
豊臣秀吉が、方広寺参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を六条坊門小路に移設したため、
この通りが五条通となり、元の五条大路は松原通と呼ばれるようになった。

天正の地割以後の通りと町


天正の地割(てんしょうのじわり)または天正地割とは、天正年間に豊臣秀吉によって行なわれた、
京都における新たな通りの建設、およびそれにともなう町割の変更である。

条坊制を構成する120m四方(正方形)のブロックは大き過ぎると考えました。
このサイズの場合、通りに面した側面は家で埋まりますが、
ブロックの中心部はポッカリと開いた空き地など、生産性が低いデットスペースとなっていたのです。
ブロックの中心を南北に貫く道路を通し、正方形だった区画を南北120m・東西60mの短冊状に整理し、
通りに面した土地を創出、より多くの商人が出店できるようにインフラを整えたのです。

地割が行なわれたのは、東は寺町通から西は大宮通にかけてである。
新設された通りの北端は丸太町通、南端は五条通付近となっているものが多いが、後に延長されたものも多い。
また四条烏丸を中心とする一帯(下京の中心部)は、地割以前から十分に市街地が発達していたため、通りの新設は行なわれなかった。
そのためこの地域では平安京以来の正方形の区画が残っている。


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